虚子的なもの、その不可能性

高浜虚子のえらさは、俳句を再生産可能なものとして、その枠組みをつくったことだ。

いまの俳句指導者たちの指導方法は、ほとんど虚子のしぐさの反復である。

虚子は俳句を誰にでも書けるものにした。

一方で、例えば高柳重信による「多行形式」などは、俳句の一回性の基礎の上に立っているので、おいそれと真似することが難しい。

でも、よく考えてみると、

重信の「多行形式」は、その一回性ゆえにそれを書くことの可能性に開かれているとは言えないか。

むしろ、重信は「多行形式」という俳句において困難なものを「書ける」ものとして示した。

一方で、虚子の方法は「誰にでも書ける」と思われているがゆえに「書けない」。

誰にでも書けるがゆえに、それを他の誰とも異なる固有の価値として書くことが困難なのだ。

この理路は、俳句という短い詩形の重要な性質を示している。

それは、俳句を書くということは、俳句で書くことが困難なもの(俳句の不可能性)に向けて書くことに他ならないということだ。

書かれた俳句が明らかにしているのは、それまで俳句では書けなかったもの、である。

だから、虚子の方法は「誰にでも書ける」がゆえに、俳句の不可能性を見えなくする。

虚子の方法において重要なのは、虚子の方法では書けないものをどのように俳句に呼び寄せ、それを俳句として成立させるか、という点につきる。

それがなければ、俳句は虚子的なもののシミュラークルに過ぎないのではないだろうか。

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