完璧な空、それを自分の内がわからのぞき込む

謹賀新年

2022年。あけましておめでとうございます。

年末年始というのは、考えてみればいつもの何気ない日々と何も変わりはないのですが、年があらたまるというただそれだけで、何か特別な日々であるようで不思議です。

近年はなんとなく、そんな「特別さ」に辟易しながら、何ごとかを為すこともなくぼんやりと過ごしてしまいます。

新連載「平成の一句」(ふらんす堂)

ところで、この年が明けた元旦から、ふらんす堂さんのサイトで「平成の一句」という俳句鑑賞の連載を担当することになりました。

緊張します。

記念すべき第1回は、桂信子の句を取り上げました。

ふらんす堂「平成の一句」1月1日 元旦やまつさらの空賜ひたる 桂信子

それにしても、こういう企画は、自分の書く鑑賞文はそれほど多くの人が関心をもつものでもなく、そこは案外気楽に書かせてもらっています。

それよりも、そもそも「平成の一句」として、どういう句を選ぶのか、というのが大事だよなぁ、と。

どんな句を「平成の一句」として選ぶのか。これ、責任感じます。

第1回の句をどこからはじめるか、しかも、新年という時期の句なので選ぶのに時間がかかりました。

たまたま、桂信子の亡くなる、ちょうどその時期の句がみつかり、もうこれしかない、という感じで選びました。

俳句を書く身としては、普段、どうにも自分の書いているものの「途中」感というものがあって、ひとりの人間が、人生の上でも俳句の上でも完成する瞬間というものがどういうものなのか、なんとなく気になっていて、この桂信子の句のような完結の仕方というものもあるのだな、とちょっと感じるものがありました。

桂信子については、以前、同じくふらんす堂さんから『桂信子』全句集が刊行されたときに一句鑑賞を書かせていただいたこともあり、その際も、全句を通して読んでいろいろと感じたことを思い出しました。

ふらんす堂「桂信子を読む」─ 信じると言うこと

自分が歳をとったからなのか、何かこういうことを今更ながらに考えるようになってしまいました。

閉じ込められている感じ

ところで、最近の所感なんですが、どうも、自分が自分のなかに閉じ込められている、ということを感じるようになってきました。

ひとつには、目が悪くなってきたことが関係しているのかも知れません。

若いころは感じなかったのですが、俳句を書くために風景を眺めていても、どこか自分の身体の奥から、外の世界をのぞき込んでいるような感じがしています。

俳句を書くということは、閉じ込められた自分の内がわから、かろうじて自分の外へアクセスする方法なのかも知れないなぁ、なんていうことを思ったりします。

「平成の一句」の連載もあり、今年は例年になく俳句に向き合わなければならなくなりそうです。

何はともあれ、怠け者の自分をどうやって鼓舞してゆくか、それだけが大きな課題です。

自分ももう若くない歳になりますが、あらためて、いま俳句を始めたばかりのような気持ちで、この一年を過ごしたいな、と。

なんだか、年頭の抱負のような話になってしまいましたとさ。

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Posted by tajima