いま奪われつつあるもの

このコロナ禍で俳句を書く人たちは自粛生活をしているのだろうか。
それとも、人知れず吟行を行ったりしているのか。

この「コロナ的状況」が俳句活動や作品に、どういう影響を及ぼしているのだろうか。それとも、実は影響を及ぼしていないのだろうか。

もう少し、わかりやすく言うと、

例えば、もしこの状況が、俳句を書く人々から「吟行」を奪ったとして、その「奪われたもの」は俳句にどのような欠落をもたらすのかということですね。
もしそのような「欠落」がなかったとしたら(※1)、そこで何も欠落をもたらさなかった「吟行」の「コロナ的状況」以前にあったはずの「価値」とはいったい何だったんだろう、ということにならないか。

例えば、東日本大震災は俳句を書く人々のなかにもアクチュアルな傷を残し、やがてそれは主題化され、いまも「それについて」書かれている。

かつての敗戦もまた、戦後の俳句に大きな主題を与えた。 皮肉なことに、そのことが戦後俳句の豊かさのひとつでもあった。

では、この「コロナ災害」はどうなのだろうか。俳句を書く上で、いま「コロナ的状況」以前の日常は維持されていると言えるのだろうか。
そこで奪われたもの(あるいは奪われつつあるもの)は何もないと言えるのだろうか。

どこまでこの状況に潜在化した「欠落」を俳句という形式で見つめなおし、描き出すことが可能なんだろうか?

(※1)かつて高浜虚子は、太平洋戦争が俳句に及ぼした影響を尋ねられて、「俳句は何の影響も受けなかつた。」と答えた、というのは有名な話。参考:『虚子俳話』から

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Posted by tajima